気まずさの所在
留意事項です。この記事はセクシャルな内容についての記事です。
東京藝大の陳列館で、4/10まで開催されていた展覧会「ヴァーチャル・ボディ メディアにおける存在と不在」に足を運んだ。
もう少し噛み砕きたいと感じる作品にひとつ出会えたので 自分の中での消化を促すために文章化していこう。この作品のことを、忘れたくないし。
Zheng Bo 〈シダ性愛 4〉(2019)
この作品は、本展の一番最初に来場者が見る作品だった。
展示室前に過激な表現があるよという内容の注意が貼られてあった。
私はこの作品の注意書きを見て
(あ〜社会的な問題に切り込むような作品なのかな?もしくはちょっと危険だったり?)
と思いながらカーテンを上げて入室した。
つまり、作品のタイトルを事前に読まずに入ったということ。
スペースに入って壁に投影された映像に目を向けると、
裸の男性ふたりがジャングルのような場所で
自然に生えてる草を
口に含んでは出して、含んでは出して、
を繰り返していた。
'あ〜!なるほど!過激ってこういうことか!
セクシャルな内容ってことね!'
と動揺した。
一緒にこの展示を見にきていた友達は今日初めて対面で会ったお友達で、ほんの15分前に「はじめまして〜!」と言ったばかりだった。
'初対面ですぐこの映像見るのって
ちょっと気まずいかも〜!'
と思いつつ見ていると、画面が暗転した。
それから、画面の男性達の熱い吐息の声だけが真っ暗な展示室内に鳴り響いた。
(わあ、このASMRは初対面のお友達と聴くには刺激的だね〜)
その気まずい時間が数分続いてから作品が終わった。私と友達は作品が終わる頃に入ってしまったのだと分かった。
その後はリピート再生され始めた本作品を最初から見始め、ラストが頭に入った状態でこの作品を改めて知っていった。
この作品は16分間程度の映像作品だ。
何度か映像が切り替わるが、一貫して、ジャングルのような場所でアジア系の男性ふたりがシダ植物に触れたり見つめたりする。
この作品を通して私は、はじめて植物に対して性的な触れ合いをしている人の様子を見た。
しかし 愛しているんだろうな、ということはスッと理解できる描写が続いた。
彼らの指先や唇、舌、目線は、どれも相手を慈しみ傷つけないように植物に触れていた。
時折 暴力的になりそうになったり、その途端、壊したくないという自制を覗かせるような動作。
知りたい、
味見したい、
暴きたい、
そんな不躾な願い。
性的指向が人間でなくとも、これが性愛であると直ぐに理解できるような映像だった。
それは吐息が漏れ出る性的な音声抜きの作品だったとしても変わらなかっただろう。
私が映像を見ていた時に考えていたことだが、
'植物を見つめ 撫で 味見してみる'
文字に起こすとただ自然と触れ合っているだけ。
でも
『この作品の中で演技する人物がひとりじゃなくて二名だったから』
その様子が性愛として普遍化されたものであるように思えた。
もしこの作品に出てくる男性が一人だったら、リチュアルな作業に見えたかもしれないなと思う。
総数が1から2になった途端にそのセクシュアリティへの印象が変わったように思える/見える。
これは数の持つ強みで、その暴力性の成す技だなと勝手に感じる。
それか、
この(私の目線で言うと)稀少な性的指向を共有することができた二人の間に生じている繋がりの部分に気まずさを感じたのかもしれないとも思う。
この作品から私は、
普段全くセクシーだと思わないものが対象でも、誰かが愛している様子を見ると途端に自分の中でもその物体が性的な魅力を持っているように感じられたのが新鮮だった。
途中に写るシダ植物の形状がなんともセクシャルに思えた。
他のセクシュアリティを擬似的に経験するような機会だった。
でも擬似的な体験なんて思い込みで、
これは私の傲慢さと想像力の弱さによって生まれた感想なんだろうなぁとも同時に思う。
自分自身のセクシュアリティと、
自分とは大きく異なってみえるセクシュアリティの間に存在する
同じところ 違うところ。
意外と同じところが多かったりするのかもな、なんて思ったりした。
それから、この作品がずっと先の未来の人に見られた時にどんな反応を示すのか気になった。
現在マイノリティである性的指向がマジョリティとまではいかずとも人々のカムアウトや社会の変化によって珍しくはなくなっている可能性もある。未来で作品がどう受容されるのかを想像するのって面白い。
それじゃ、また。



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