トントントントントントン
こんにちは。いかがお過ごしですか。
先日、京都芸術センターで開催されている伊東宣明さんの個展「時は戻らない」に行ってきました。
映像作品の展覧会だったのですが、どの作品も一つ残らず興味深くて、展覧会に足を運んだ次の日に10人くらいの知り合いにこの作家さんの展覧会を勧めました(今これを読んでいる貴方にもお勧めしますね)。
トントントントントントン
本当は、
いや〜全部面白くてさ〜!
と、だけ言っていたいところですが
展示から三日くらい置いてみて「おや?」とジワジワ気になることが見えてきたのでブログを書くことにしました。
今回も例の如く、作品について批評したり絶賛したり、といったことはするつもりはありません。展示の仕方に関して気付いたことをお話ししますね。
今回の展示で私が一番興味をそそられた作品は
《生きている/生きていない》(2012~)です。
これは、一人の人間が裸の状態で聴診器を自分の心臓に当て鼓動に合わせて生肉をたたき続けるという内容でした。
ひたすらこぶしで肉を叩く裸の人を見ているという異様ともとれる鑑賞体験でしたが、はじめはおもしろくてちょっと笑いながら見ていました。でもだんだん、生肉(死んだ生命)と、動く心臓(いまは生きている生命)の接触するさまに圧倒されて暫く黙って鑑賞していました。
トントントントントントン
さてやっと本題に入るのですが、この作品は京都芸術センターのギャラリー北に展示されていました。来場者はエントランスから入り、廊下を歩いて、校庭のような中庭のようなスペースを通ってこのギャラリーに入ります。
ギャラリー北にたどり着くと展示室出入り口の前に何かお知らせがありました。「どれどれ?」と思って読んでみると、このような言葉が書いてありました。
【注意】ギャラリー北に展示している《蝋燭/切り花/眠り/煙 》は、上半身が裸の男性が自ら皮膚を剝いでいくような映像作品です。
《生きている/生きていない》は、上半身から下腹部までが映った裸の男性が、食肉用の生肉を叩く映像作品です。ご了承のうえご入場ください。
https://www.kac.or.jp/wp-content/uploads/handout_jp_FOCUS4.pdf
引用元:京都芸術センターが公開している会場配布用資料
トントントントントントン
この掲示を読んだとき「え~なにそれ、おもしろそ~」とむしろ興味をそそられてしまったのですが、数日たってみると不思議だなあ、と気が付きました。
皮膚を剝いでいく方の映像作品はグロテスクに感じられるかもしれないから、注意喚起を促すのは何も不思議ではないのですが《生きている/生きていない》は正直なぜ注意を出すのか、今の私にとっては不思議でした。
注意喚起があることで「もしかして下半身が見えちゃう瞬間があるのか......!?」と身構えていましたが、特にそんなハプニングもなくひたすら下半身は生肉に隠されたまま映像は進んでいきます。
トントントントントントン
私はもともと、作品の横にある注意書きは基本的に鑑賞者を守るために貼られるのだと考えていました。
例えば「一部流血表現があります」などは、血を見ると具合悪くなる人にとってはその作品を見る/見ない選択肢が与えられるので鑑賞者にやさしいんじゃないかと思います。
じゃあ裸の男の人の体が鑑賞者の前に提示されるのって、何か弊害があるのでしょうか。
この作品の中で、男性は誰かに傷つけられているわけでもないし何か不愉快にさせるような動きをしているわけでもなく...... 淡々と生肉を殴っている......
一体何の問題が?
トントントントントントン
もしかして男性のからだってところがだめなのでしょうか。女性の体が描かれている絵画に注意書きが貼られている様子は見たことがないし。
いや、でもダビデ像に裸体注意とも書かれていないですよね。
下半身全部出てるけど。
ということは性別じゃなく実写(リアル)な人間だとよくないんでしょうか。
絵画や彫刻なら問題視されないということは生身な人間の裸体は見る人をドキリとさせてしまうから心の準備が必要と思われたのでしょうか。
それでは、人間そっくりに生成されたヒトにしか見えない創作物の映像だったらどうなるのでしょうか。我々はどこで映像の中の人間をヒトと判断するのでしょうか。
作品の中に 鑑賞者や社会に対する攻撃性が見受けられない以上、見る人に害を与えることを防ぐためだけに注意書きが貼られているわけではなさそうです。ここで「作品の注意書きは一体、なにをなにから守るために存在しているのか」という疑問に辿り着きます。
これまでの内容を考慮して、私は作品の注意書きに対して、
どちらか片方を守ることでもう一方を守ることになり得る存在であるという考えに至りました。
でも、そうですねぇ。作品の保護が鑑賞者の保護に繋がっていくなんて今思うと、至極当たり前かもしれないことですね。
トントントントントントン
一旦私の発言が伝わりにくそうだと判断したので、説明書きが無い状況を想像してみようと思います。
例えば、ギャラリーに入った人が作品の第一印象(裸の男の人が写っている)に驚いたり、ふざけた内容だと思ってじっくり見ずに出て行ってしまうかもしれません。
結果的にその鑑賞者と作品との間には対話が行われなくなってしまい、とても残念なことだと思います。
作品鑑賞にあたっての注意書きには
鑑賞者の心を守る、身体を守る、という役割を持つものが多いと思われます。もしくは作品が破壊されることの阻止なども担います。
そしてそれらの作用は最終的に、作品と鑑賞者の両者にとって関係のある「対話の機会」を守ることに繋がっていくのです。
でも説明書きがいっぱいの文字で書いてあったら読む気が起きませんし、どこからどこまで注意書きが必要なのかという基準も曖昧です(もし美術館法などで注意書きに関する項目があればだれか教えてください......)。
では、来た人が自然と注意すべきことを理解できるためにはどのような工夫が必要なのでしょうか。
私は、アフォーダンスを理解してキュレーションに取り入れることで、煩雑さを省いた注意喚起ができるのではないかと考えています。
それならキュレーターは、アフォーダンスのことを考えることが多いであろう分野、商品デザインなどの他分野から大いに学ぶべきことがあるかもしれません。
(日本の学芸員資格のために受ける博物館額の授業で展示方法とアフォーダンス、なんていう学習内容はあるんでしょうか?)
そうはいっても、文字は伝わりやすさの面や馴染み深さから圧倒的に扱いやすいですし、私もしばらくの間は自分がキュレーションする時も注意喚起には言葉を頼ることになるのだろうなと思います。
なんやかんや長くなってしまいましたが、
注意書きは
作品と鑑賞者
それからその双方の間に起きる対話の機会
を守る効果があるとわかりました。
じゃあ、どんな表現がその効果を最大限引き出せるのでしょうか。先程書いたアフォーダンス的なアプローチだけでなく、音や触覚、はたまた光や匂いなど、もしかしたら伝えたいことを表す上で言葉よりも人間にフィットする方法があるかも知れません。
すぐに見つかるものでも無いのでじっくり探していこうと思います。
トントントントントントン
さて、今日はこの辺で終わりにしようと思います。
京都芸術センターで開催している伊東さんの個展は会期が7/18までです。
▷京都芸術センターのHPです。
それから、東京のwaitingroomでも6/25から個展を開催されるそうです。
▷waitingroomのHPです。
伊東さんの作品は今回詳しく書いた作品以外も本当にどれも面白くて素晴らしい鑑賞体験になりました。
お近くの方、是非個展に足を運んでみてください。
それでは、また!
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